天台宗務庁 出版室 「ともしび」Vol.97 より   ともしびインタビュー

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タイトル「光は、どこから」
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写真「画家」  小池 誠さん

長野県下伊那郡に、画家の小池誠さんを訪ねた。骨肉腫のため18歳で左足を切断。再発のため、20歳で左肺を、28歳で右肺を手術した人である。そう思わなければ義足だとはわからない元気さ。車だって運転は自分でする。生死の境を何度もさまよいながら、小池さんの考えは実にポジティブである。
「3回目の手術で、吹っ切れた。その時に、思いのたけを絵にぶち込んで、自分のいのちを納得することを学んだ」という小池さんは底抜けに明るく、描く絵はあたたかい。何より、湿った甘えが、この人には全然ないのである。
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骨肉腫のため18歳で左足を切断
地元高校を卒業して東京の予備校に通っていた時、毎晩走っていたんです。 ある日、左膝にチクチクと刺すような痛みを感じたので、精密検査を受けました。全てを知りたかったので、告知を受けました。骨肉腫でした。
骨のガンです。30年前、骨肉腫は9割以上の人が半年以内に亡くなるという病気でした。切断しなければ生存率は絶望的でした。1パーセントでも可能性があるならと、ボクは左足を切断することを決断したのです。
悲しかった…。手術の前の日、左足をスケッチしたりしましたもんね。手術室に向う時には、泣けて泣けて涙で前が見えなくなりました。けど、その時はまだ、人生の途中でつまずいて、人よりも遅れをとってしまったという焦りのほうが強かったんだよね。何とかして早く追いついて、一人前にならなければという気持ちでした。

この病気になると、皆ヤケになって、荒れるんです。家族や看護師に当り散らしたり、わがままし放題になったりする。でもボクはヤケをおこしたりはしなかった。自分の運命かなって。そんなふうに淡々としていられたのは、田舎の農家で育ったせいじゃないですかね。集団生活ですから、一人だけ勝手なことをしていると、オヤジがすっ飛んできて、「何勝手なことやってるんだッ!」って殴られるんです。何があっても人に迷惑をかけちゃいけないってことが自分の中で徹底してたんでしょう。片足を失っても、特別扱いしてもらえるわけではありません。
左足は切断しましたが、何とか退院できました。それが20歳の時に再発です。左肺に転移していました。入院した慶應病院の担当医は骨肉腫の患者を百何人と診ていて、「再発しても5年以上生存した人が数人いるから、君にも可能性がないわけではない」とか楽観的に言うんですよね。そんなのボクにとってはゼロに等しい確率でしょ。いやいや、二度目の告知はかなりショックでした。命の保証が全然ない。今度はついに死ぬのかと……。
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作品「母子像」
「母子像」

作品「さえずり」
「さえずり」

作品「祈り」
「祈り」
そして、再手術に。この時、小池さんは、
今までにない体験をする


再発の診断を受けて、呆然としながらアパートに戻って、窓辺まで歩いていくと顔にあたる風が心地いいんです。黄昏がきれいで……、気づいたら涙がボロボロ流れていました……。"俺は歩けるんだ、自分の足で一歩一歩、歩いているんだ。俺は、いま生きているんだ"って切実に感じました。いのちをこんなにも限りなく尊く、愛おしく感じたことはありませんでした。一秒一秒の体験が、一生の出来事のように思えるのです。と同時に、死というものが、ずっしりと重くのし掛かってきました。それなのに、人間って不思議ですよねえ。目の前に死をぶら下げられると、何とか生きたいと思うんだよね。

入院していた病棟は相部屋でした。夜中に医師や看護師さんたちが入ってきて、慌ただしく動いていたかと思うと、次の日の朝、隣のベッドは空になっていて、シーツがきれいに整えられていたりするんです。昨日まで、その患者と話をしていたのに…。地下の放射線治療に向かうとき、分厚い扉の霊安室がありました。いつかあの扉の向こうに行くんじゃないか…。その時に「死にたくない…。とにかく生きたい!」と思いました。こうして生きているのは、運もあるけど、生きたいという精神力が大きかったと思います。
幸い、この時も順調に回復したんですが、退院の日「もう、小池君は東京にいないほうがいいんじゃないかな。田舎に帰って好きなことしたほうがいいよ」って医師に言われました。今度再発すれば、アウトだから、もう好きなことして生きなさいってことなんですよ。

実家に帰ってきても、毎日何をするということもない。でも、このままじゃ死ねないわけですよ。せっかくこの世に生を受けて、いろんな事を感じることができるのに。たとえ半年後に死ぬとしても、生きているうちに、生や死というものの根源的なものを少しでも知ってからでないと死ねない。

左足を切断した時に、将来の夢だった建築家になることをあきらめ、絵を描き始めていました。感じたことを自分なりに表現して、生きた証を残したかったんです。
オヤジはとにかく厳しい人でした。大戦で捕虜になったことも原因でしょうが、その上、この山村で農作業に徹し、3人の子どもを大学まで出してくれました。並大抵の苦労ではなかったと思います。ですから「5年は面倒見てやる。その後は自分で生きて行け」と言いました。ボクは三男でしたし、継ぐ家もない。普通ならオヤジの方が先に死ぬわけですから「何とか、自立せい」というわけです。
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そうして、小池さんは自立を目指す

少しずつ体調もよくなってきたので、一人で動けるようにまず車の免許を取りました。
絵を描くにも全くの素人です。図書館に通い本を読み漁り、模写も始めました。定期健診東京に行ったときには美術館巡りもしました。水墨画から油絵からいろいろと描くのですが、本を見ているだけの独学です。何とかしたくって気になる作家を突撃訪問したこともありました。偉い先生だとも知らずに、いきなり絵を見てくれと言ったときには、憮然として「君、これは日本画じゃない」なんて言われたこともありました。体のこともありました。長時間立ったままではいられませんから、自分が納得する技法を見つけたいと思いました。この頃は、展覧会に出品しても出品しても落選ばかりでした。
オヤジからの期限は迫って来ているのに、お金がないから絵の具も買えない。働こうと思って方々当るんですが、ことごとく断わられました。何とか、地場産業の水引作りのパートに雇ってもらい、いくばくかの賃金をもらいながら絵を描いていました。そんな中、祖母が寝込んでしまって。うちは農家ですから皆それぞれに忙しく、私しか看病する者がいないんです。看病して、パートに行って、絵の勉強をして…。そんな生活を送っていたら、無理がたたって、病気が右肺に再々発したのです。二度目の手術から8年が経っていました。この頃になると、治療薬もできていて、完治することができました。
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