前回、障害者アートバンク大賞作家の作品が「障害を持っているが故に素晴らしいものを描ける」ということを指摘させていただきました。しかし、この表現は誤解を招きやすい。もう一度、しつこいようですが私の意見を書かせていただくことにします。
率直に言いまして、現在の障害者芸術活動というのは、「障害者(とくに知的障害者)の純粋無垢なる魂の叫びは、素晴らしい」といった賛美に溢れすぎている気がします。ちょっと待てよ。ミスターウラオカは、さっきまで「障害を持っているが故に素晴らしいものを描ける」と言ったばかりじゃないか。何を言っているんだこいつは?とおっしゃる方がいるかもしれません。
そうなのです。ここが誤解を招きやすいところなのです。私が申し上げているのは、「障害を持つが故に素晴らしい作品を描ける作家もいる」ということであって、全ての障害者が芸術的才能を持ち合わせていることではないのです。しかし、障害者芸術に関わる多くの方の意見を聞いていると、みんなに才能があるかのような誤った発言が感じられるのです。
多分これは、障害者芸術が福祉の分野で、あるいは教育的観点から実施されていることが原因なのでしょう。福祉や教育の観点からは、全員が平等に参加することに価値を見いだしているからです。
でも、ちょっと冷静に考えてみてください。
はっきり申し上げて、芸術の世界は福祉とまったく違った考えから成り立っています。芸術の世界では、才能を持つものと持たないもの。この2種類しか存在しません。
才能があるものは、評価され、その作品は様々な会場で個展が催されたり、人気が出たりしますが、才能がないものは違います。そういう厳しい世界です。
ところが、障害者芸術の世界はどうでしょうか。「みんなが天才」「一人ひとりにきらめく才能」「健常者には描けない純粋な世界」などという美しいコトバばかりが先行してしまっていないでしょうか?本当に、展示される全ての作品が素晴らしいなどと確信を持って言えるのでしょうか?連載4回目の展覧会についての原稿で、「障害者の展示会でいいと思う作品に出会ったことがない」という指摘をさせていただいたことがあります。もう少し正確にいいます。良い作品も稀にはあるが、ほとんどが良くない作品ばかりであり、それらの良くない作品のために一部の宝物たちが埋もれてしまっているのだと・・・・。
私がこのコラムで主張していく問題の核心は、障害者芸術運動を批判することではもちろんありません。そうではなくて、むしろ現代のアート(とくに日本の封建的な画壇の世界)を根本から否定し、新しい価値観でアートを楽しむ提案をしていくことです。そしてその中には、障害を持った方々が描く素晴らしい世界が大変大きな比重を占めていることも確かです。しかし・・・・。だからこそというべきか、障害者アートの本質的な評価は冷静な視点で行っておきたいと思うのです。
いいものは、イイ。駄目なものは、ダメ。単純にいうと、そういうことです。世の中のアートを作家名や価格で評価しないのと同じように、障害者アートを福祉的視点から見ないようにしてほしい。これが私からのみなさんへのお願いであります。たとえ重度の障害を乗り越え、一生懸命描いた作品であろうと、良くない作品は一顧だにする必要などないのです。そしてそれこそが、アートにおけるバリアフリーというものでありましょう。
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