『星』連載300回記念インタビュー 

太田さんが長年、財団法人「富士福祉事業団」から発行されている「ボランティア」という冊子に掲載してきた「星」の、連載300回を記念してインタビューが行われました。
その模様は「ボランティア」の2000年7月号に掲載されました。

星の罫線

1972(昭和47)年12月・1973(昭和48)年1月の合併号から始まった、太田利三さんの『星』が先月号で連載300回を達成しました。28年にもわたる長期連載で、当初は四こま漫画の形式で、心温まるお話し、しんみりとするお話し、クスッとくるユーモアのあるお話し、そしてときにはシニカルなお話しなどを紹介してくださいました。近年は手法を変えて、芸術的な味わい深い絵が好評です。
写真:第一回目の「星」  『星』は毎回楽しみにしています」という読者の方も多く、編集部でも、「今回はどんなお話しで、どんな絵だろう」と原稿が届けられるのを心待ちにしています。しかし、毎月毎月異なるテーマで、文章を書き、異なる絵を書くということは、かなり大変なことと創造されます。
 そこで、今回は連載300回突破を記念して、当事業団常務理事で編集発行人の枝見太朗とともに太田さんのアトリエを訪れ、創作上のご苦労などをうかがいました。初夏のさわやかな風がそよぐなか、太田さんとは初対面の私たちは緊張を隠せませんでしたが、太田さんはその緊張をほぐしてくださるような穏やかな笑顔で、弘子夫人とともに出迎えてくださいました。
 アトリエは、現在太田さんが主催する児童絵画教室も兼ねていて、大きなテーブルが中央に置かれ、棚には生徒たちの描きかけの絵が整然と並べられています。周囲の壁には作品の数々が額に収められ、さながらミニ美術館のようです。
 太田さんと枝見常任理事との対談は、太田さんがこれまで描きつづけてきた『星』の数々を収納したファイルを見せていただきながら始まりました。

枝見 しかし、これだけの作品を1枚1枚描き続けて28年というのは、実に大変なことですね。
太田 粘りのある性格なものですから。でも、やはり枝見理事長や横井寸枝さん(当事業団の元理事で、ギャラリーカドーのオーナー)への感謝の思いもありまして、それで続けてこられたんだと思います。かえってご迷惑かもしれませんが。
枝見 いやいや、とんでもありません。
太田 「広報ふじかわ」(先生の地元、富士川町の広報誌)に載っている『星の子』というマンガのほうも、続きに続いて、今、345回ぐらいになっているんです。
枝見 1964(昭和39)年からだそうですから、本誌よりも古いわけですね。
太田 そうですね。
枝見 理事長や横井さんが太田さんと一緒に仕事をしているとき、私はまだ子供でしたからよく知らないのですが、本誌で連載をすることになったそもそものきっかけというのは、どういうことだったんでしょうか。
太田 カドー画廊(現キャラリーカドー)で個展を続けて6回ほど開いてくださいました。そのあと、当時富士福祉事業団にいた職員の方から、「うちの雑誌でマンガを描いてみませんか」というような内容の手紙が届きまして、それで始めたんだと思います。

写真:インタビューの様子 太田さんは生後7ヵ月で、ポリオにより歩行障害になりました。戦前のことで今と違い、リハビリという言葉すらない時代です。結局、学校にも行けず、絵を始めすべてを独学でマスターされました。しかし、その陰には、さまざまな困難があり、人には言えない苦労もあったのです。
 窓から外を眺めるだけの生活が続き、「外へ遊びに行きたい」と思っても、なんとなく周囲に遠慮してしまい、言い出すこともできなかったそうです。しかし、15歳になったコロには積極的に外に出ようという気持ちになり、毎朝近くの河原に出かけて行きました。荷物は絵を描く道具一式と本とラジオです。
 太田さんが絵を描くようになったきっかけは手塚治虫にあこがれたためで、河原でもマンガばかり描いていました。しかし、ラジオから流れる音楽や読んでいた小説の世界を自分の思うままに描いているうちに、今のような抽象的な絵を描くようになったそうです。当時、誰かが絵を教えてくれたというわけではありませんでした。
 その後、20歳を過ぎて太田さんは、自分の絵を自分の絵を新聞社や出版社に送りつづける日々を送っていました。やがて、大きな転機がやってきました。新宿のカドー画廊で個展が開かれたのです。

枝見 枝見理事長との出会いというのは、どのような形だったのでしょうか。
太田 私の絵の先生ということになっている方がいらっしゃるんですが、その方から、東京の富士新報福祉事業団(富士福祉事業団の旧名称)の枝見理事長に会って、カドー画廊で個展を開いたらどうですか、という話になりました」というハガキをいただいて、当時は何が何やらよくわかりませんでした。「枝見先生が力添えをしてくれます」と書いてありまして、そのハガキは今でも持っております。
枝見 そうですか。では、実際に初めて理事長に会ったのは、東京でということになりますか。
太田 ええ、東京に行ったときですね。枝見理事長は「富士新報」という新聞を発行していて、それに個展の広告や記事を載せてくださいました。私が30歳のときだったと思います。
枝見 今から30年ほど前ですね。すると、1970年ころということになりますか。
太田 それから、6回続けてカドー画廊で個展を開いていただいたんです。 写真:弘子夫人と太田氏
枝見 それから、現在に至るわけですが、300回という連載の間に、やめたいと思われたことはありましたか。
太田 やはり、気分的に落ち込んだりしたときなど、やめようかと思ったこともないわけではありません。しかし、将来息子が読んでくれる機会があるかもしれないですし、それにたとえ読者の方が読まなくても、編集部の方は読んでくれているだろうし、少しでも読んでくれる方がいるのならありがたいことだし、続けていかなければならないなと。あと、いつだったか、枝見理事長から暑中見舞いをいただいて、その文面に「続けることは黄金だ」というような言葉が書いてありまして、その言葉も心に残っていたんでしょう。ただ、もともと粘り強いい性格ですし、続けたいという気持ちは強く持っていました。

太田さんとの対談の合間に、絵画教室の生徒たちがやってきました。この教室からは、各種コンクールに入賞する生徒も多いのです。 話題が子供に関することになると、子供好きな太田さんのお話しにも熱が入ります。

枝見 太田さんの場合、子供たちにテクニックを教えるよりも、先に描こうという気持ちを起こさせるわけですね。
太田 どんな芸術だって、最終的には「心」だと思います。
枝見 そうですよね。私もこういう先生に教わっていれば、今ごろはすごい画家になっていたかもしれません。(笑)
太田 子供たちにはよく言われるんですよ。「こんなうまくないのを描かせてうそつきだ」とか「実物とは色が違うのに、これでいいなんて。うちのお父さんもお母さんもおかしいって言ってる」とか。厳しい批判が来るんですが、私にしてみれば、それは心ですから、決められた画用紙のサイズで、どんな紙面であれ、すばらしければそれがいい絵なんだと子供らに話します。

写真:第100回目の「星」
枝見 そのことを親御さんにも理解してもらわないといけないですよね。
太田 見えないものに価値があるということで、「顔にある目で見るんじゃなくて心の目で見て描くといいよ」と、子供に対してはずいぶん哲学的なことを言ってるんです。親御さんには恥ずかしくて、そんなことは言えません。
枝見 絵画教室も30年やっていらっしゃるそうですが、そのころと比べて今の子供たちは変わりましたか。私はかなり違うように思うんですが。
太田 私は「心」で子供と接するようにしていますから、あまり変わりがないように見えます。「心」はいつも同じで変わらないんじゃないでしょうか。
枝見 本質的には変わらないというわけですね。では、子供なりにやさしさがありますか。
太田 あります。うれしいものですよ。どんな時代の子供でも、私を見かけると、駆け出して来てくれるこさえいるんですから。幼稚園なんかに行くと、えらいことですよ。行列が出来てしまって、絵を描いてくれというわけです。小さいときに付き合いのあった子供たちが中学生や高校生になっても、また、成人しても挨拶したり声をかけてくれたりします。

 心のこもったおいしいお食事をご馳走になった上に、デザートにはプロ級の腕前の弘子夫人のケーキまでいただきました。温かなご家族やヘルパーの方、明るく元気な子供たちに囲まれた太田さんの笑顔を見て、作品に漂うやさしさやユーモアの源がどこから来ているのかがわかりました。これからもすばらしい作品を送り続けてくださることでしょう。

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