車椅子の先生のもとで、子供たちがワイワイガヤガヤと楽しそうに絵を描いている。そんな素敵な絵画教室が、庵原郡富士川町にある。みんなに絵を指導しているのは、画家・太田利三さん(51歳)。銀座大賞展入選、水上杏平大賞、1992年度国際芸術文化賞等、これまでに28回の受賞歴を誇るという堂々たるアーチストである。

絵画教室の様子  太田さんは、ポリオによる歩行障害。生後7ヶ月で病気にかかり、以来家族からもあまり顧みられない孤独な人生をずっと歩んできた。なんと、未修学独学。現在の職業である絵画ですらも、まったく誰の指導も受けずに独力で学んでいったものなのだそうだ。
「小さい頃の日課といえば、河原で読書をするか、絵を描くか、ラジオで音楽を聞くか、この3つしかありませんでした。毎日、母親に富士川の河原まで担いでいってもらって、日が暮れるまで一人でじっとしていたんです。私も人並みに、友達と精いっぱい遊ぶことに憧れていましたね。こんな体だとそれもかなわないので、せめてみんなの姿を遠くから眺めていたかったんですよ。」

 そんな太田さんが現在絵画のテーマとして描くのは、ほとんどが子供をモチーフとしたもの。子供達の純真で、明朗で、楽しい世界が大好きで、子供達と一緒にいるだけで、次々と絵のテーマが浮かんでくると、太田さんは語っている。

長男 献くんと  そんな太田さんが近所の子供の母親から、子供に絵を教えてほしいと依頼されたのは二十数年前のことだ。謙虚すぎるほどの性格の太田さんだが、このときばかりはおこがましさよりもやりたさが勝り、これを快諾する。というのも、子供と一緒に遊ぶことは、太田さんにとって小さい頃かなえられなかった夢だったからなのである。

 「絵画教室の楽しみは、なんといっても子供達の絵を見れることですね。一緒になぞなぞして遊ぶのも好きなんですけど、子供の絵のパワーに接していると、勉強になることばかりなんですよ。発想の豊かさとか、構図の大胆さ、描き込むエネルギーの大きさ、天才と一緒にいるのと同じですから、私にとっては毎日が勉強の連続です。」

 こう謙虚に語る太田さんであるが、その絵画教室の実力は全国でも有数のものであり、関係者の間では指導力が高く評価されている。全国でおこなわれる児童絵画コンクールに出品すると、太田画塾から必ずといっていいほど入選者が続出するからである。しかも、それは一部の才能ある子供達だけの話ではない。それまで絵などまともに描いたことのなかった腕白坊主ですらも、太田氏の手にかかると岡本太郎をして絶賛の嵐を浴びせるほどの作品を描いてしまうというのだ。

「誰でも、絵を描く才能というのは持っているものなんですよ。絵というのは小手先の技術ではなくて、あくまで描き手の心の反映ですからね。私の役目は、子供たちの豊かな心をいかに引き出してあげるかということにつきます。描く気にさせれば、子供たちは私があきれるくらいにがんがん描いていきますよ。あのパワーは、私も見習いたいくらいですよ。」

絵画教室の様子  太田氏は、月刊ボランティア(富士福祉財団発行)と社会福祉しずおか(静岡県社会福祉協議会発行)に、それぞれ「星」「星の子」と題したエッセイと4コママンガを20年以上も連載している。この中で語られる内容は、毎日の子供たちとの接触から生み出される何気ない会話ばかり。それにもかかわらず、読む者を暖かな太田ワールドに引き込まずにはいられない独特の魅力に満ちあふれている。

 「子供時代に岩波文庫で読んだハイジの物語は、活字の小ささも苦にならない面白さでした。教室の子供たちに、今でも私はハイジの話をします、(先生、そんなにハイジが好きなの。それなら、キスしたの?)一生徒の問に、私は忙しさに我を忘れついうなずいたようです。翌日、学校帰りのこの子は私の家の前に立ち止まり友達に向かって大声で言いました。(あのね、絵の先生、ハイジとキスしたんだって・・・)〜『星』 第180回より

 このように、太田さんの絵画教室は、子供たちの話し声で毎日がにぎやかそのものである。
「誰々さんの好きな人、内緒で教えてあげよっかァー」「教えて、教えて」「こそこそこそ・・・」「先生、なぞなぞ一緒にやろうよ。」「下はおお火事、上は洪水なぁーに?・・・」

 みんなとのこうした交流が、太田さんにとっては絵画制作の活力となり、子供たちにとっても貴重な体験となっているのである。この教室で学んだ子供たちは、これからどのように成長していくのだろうか。きっといつまでも夢心を忘れない、やさしい人に育っていくのだろうな、などと空想してしまう。太田利三絵画教室は、訪れる人をみな夢追い人にしてしまう不思議な空間である。

(文・アートビリティ(旧称:障害者アートバンク) 戸原一男)

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