自然と子供にかこまれて

 太田利三 おおたとしぞう(60歳)

太田さんと子どもたちの写真

 1939年、静岡生まれ。ポリオによる歩行困難。生後7ヵ月で病気にかかり、以来家族からもかえりみられない生活を送り続けてきた。現在の職業は、画家。すべて独学で覚えたものである。子供の世界をなによりも愛し、彼らが描くような無邪気な世界を芸術の域にまで昇華させるのが自分のテーマであるという。池田満寿夫賞、銀座大賞展入選他23回の受賞歴を誇る。48歳の時に、絵画教室の教え子である20歳年下の弘子さんと結婚。10歳になる子供がいる。

 小さい頃はね、朝起きると家の縁側まではいずっていって、日が落ちるまでそこで外の様子を眺めて暮らしてました。暗くなるまでずうっーと。そこで何を見ていたかといいますと、外の景色であるとか、街いく人たちの姿であるとか、本当にたわいないものですね。私の家は農家でしたので、父親は外に働きに出てましたし、母親は畑に出ていったので、誰も私のことをかまってくれる人はいなかった。だからいつも一人でぼっーと外の様子を眺めて1日を過ごしていました。牛車とか馬が家の前の国道を通っていく様子とか、子供が遊んでる姿とか。こういう風景を眺めるのがとっても大好きでね、何をしているわけではないんだけど、外さえ眺めていれば満足でした。

 なにしろ、私の子供の頃は車椅子どころか、リハビリなんて言葉すらもすらもない時代でしょ。家のなかをはいずっていこうとしても、その動き方すら誰も教えてくれないわけ。幼い頃は手の力だけで体を支えて移動していたから、体力が続かないし、なにより手が痛くなってそれほど遠くまで動くことはできなかったのね。だいぶん大きくなったときに「いざる」という動き方を自分で何かのきっかけで発見したときは、とってもうれしかったのを覚えてる。これでかなり楽に移動ができるようになるって。手の力だけで移動していたときは、小さい頃だから手の皮が柔らかいこともあって、ものすごく大きなたこが両指にできてた。物心ついてそれが恥ずかしくなって、ハサミでじょきじょき毎日たこを切っていました。

 窓から眺めるだけで満足するほど外の世界が好きだったにもかかわらず、自分から外に出たいとか、遊びにいきたいとか言いだすことはまったくできませんでした。言おうとすると先に涙がでるので、恥ずかしくて言えなかったんです。しかも、家の中の様子にオロオロして胸を痛めるタイプで、いつのまにか遠慮深い性格になっちゃった。べつに身内にいじめられたとかいう経験があったわけではないんですが。何となく周囲に漠然と、私に「遊びに外へ出たい」なんてことを言わせない雰囲気があったのは事実です。ちょっとでも私が偉そうなことを言おうものなら、私のおやじは「おまえはそんな偉そうなことを言えた義理か」なんてよく言ってましたから。弟の学帽をかぶって出かけただけで兄弟から嫌な顔をされたり……身障児の相談にのってもらうために母と一緒に医者にいったときに、一度だけかぶっただけなんですけど。私は学校と名のつくものに一度も通ったことがないんです。だから、学生服とか学帽なんかはとっても憧れていたんですよ。

 その頃一番困っていたのは、トイレにいけないこと。私は小さい頃から一人でお風呂にも入れるし、足が不自由だからできないことというのは何にもなかったんだけど、トイレだけは不自由した。わが家のトイレは汚かったからね。用を足そうと思って、なかにはいると、途中におしっこの池ができてるの。私は立ち上がって小便をするわけにいかないから、大便用の部屋にいきたいんだけど、そこにいくためにはそのおしっこの池をまたがなくちゃあいけなかったんです。つまり、私にとっては全身尿まみれにならなければ用を足すことができなかったわけ。これが屈辱でね。何で私のためにトイレを作ってくれないんだろうって、小さい頃からずっーとおやじを呪ってた。6歳の時から死ぬまで、だから親父とは口もきいていないですよ。

 いくらなんでも尿まみれになって用を足すのは嫌だから、かわりに縁側でやることを覚えてね。庭の土に向かって発射してました。毎日私がここでおしっこをするもんだから、だんだん縁側が臭くなってくるんです。あんまり臭くなったもので、たまりかねた兄貴が土を掘り起こして砂を埋めた簡易トイレを作ってくれたんですけど。こんな簡易トイレじゃなくて、きちんとした、人の目を気にすることのないトイレを親父に作ってほしかったんですよ。だけど、どうしても作ってくれなかった。親父は天下一品のケチだったんです。

 その頃から私は、親父に対する反発心もあって、とにかく自立したい、独立したいと思い続けてきました。独立して、自分だけの家を作りたい。おしっこがゆっくりできるトイレを作りたい。人前でまっ裸にならなくていいような、脱衣所つきのお風呂も作りたい。なによりも、自分は一人でだって十分生きていけるんだということを証明してみたい。そんなことを家族の前で口に出そうものなら一笑に付されてしまいましたけど、それでも独立したいという意志だけはずいぶん小さい頃から持っていたように思います。もちろん、そうはいっても現実とのギャップに悩み、苦しみ、絶望感のために1ヵ月に1度はやりきれなさが募ったストレスで胃を悪くして、吐きまくっていましたけどね。

 15歳くらいになると、もっと外の世界を見なくちゃあいけないと思って、積極的におもてに出ていくようになりました。毎朝おふくろにおぶってもらって、河原に連れていってもらいましてね。朝、河原に連れていってもらった後は、一人でそこに1日中座り込んでいたんです。暑くても寒くても、ちょっとぐらい雨が降ろうと、欠かさず河原へはいってました。15歳のときからずっーと。たぶん私が25歳くらいになるまで続いてたんじゃないですかねえ。河原には、絵を描く道具一式と、本、ラジオなんかを持って行った。

 ラジオから流れてくる音楽を聞きながらぼっーと景色を眺めていたり、小説を読んだり、絵を描いていました。草のなかで聞く音楽というのは、どんな名ホールで聞くよりも素晴らしいんです。土の臭いはする、風の流れを感じられる、水のせせらぎも聞こえてくる。こんな場所でクラシックの名曲が流れてくるわけだから、ほとんど恍惚として聞き入っていましたね。当時の私にとって、音楽というのは慰めでした。一人ぼっちで自然に触れながら将来のことについて夢を膨らませたり、絶望感にさいなまされたり、泣いたり笑ったりしていたんですが、どんなときでも音楽が私を慰めてくれていたような気がします。

 絵を描くようになったのは、昔は誰でもそうだったと思いますが、手塚治虫に憧れていたから。漫画家になろうと思って、河原でも漫画を描いてばかりいた。いまみたいな絵を描くようになったのは、いつのころからだかわからないんだけど。ラジオから流れる音楽とか、読みあさっていた小説の世界を描くようになるうちに、次第と変化していったんでしょうね。絵を描くっていったって、誰が教えてくれるわけじゃあないし、まったくの見よう見真似。耳に聞こえてくるこの音楽の感じを絵にすればいいんだなって。写生画なんかは全然描かずに、そんな形で自分の思うままに描き続けてきましたから、その頃から抽象画的な絵ばかり描いていましたね。

 絵を描いていると、通りがかる人たちがよく声をかけてくれたんです。当時の私にはそれがまたうれしくて。私が河原に出ていった理由というのは自然に身をおきたいというのがありましたけど、もう一つは人と会話したいという気持ちが強かったですから。とくに子供とね。人前に自分の姿を見せるということはつらいことでもあったんです。でも、それ以上に人と、子供と会話がしたかった。人が声をかけてくれなければ、私は河原へなんか出ていなかったと思います。どんな日であろうと必ず同じ場所にいて絵を描いているものですから、町でも名物になっていて、いろんな人が通りがかりに私が描いてる絵を見てほめてくれたりしました。家のなかでは抑圧された気持ちで過ごしてきたから、こんなことでも他人からほめらられば、本当にうれしいんです。やっと一人の人間として、自由に息がつけたような気がしてね。

 とにかく昔から何もすることがなくて、一人で考える時間ばかり持ってましたでしょう。だから「自分の人生は何のためにあるのか」とか「人が生きるということはどういうことなのか」なんてことばっかり考えていたんです。普通に生きている人の何百倍も、そういう問題については考える時間が多かったと思う。それに体が動けないことのメリットが一つだけありまして、辛抱強さがつくんです。一人では他に移動できないわけだから。集中心もつきますし。本を読むにしても、絵を描くにしても、集中心だけはすごいものですね。他に何も取柄はないですけど、これだけは人に自慢できるかもしれません。

 人生について悩みを持ったときに答えを与えてくれたのは、小説です。誰も相談相手がいないから、一人で悩んでいても袋小路に入りこんじゃうでしょ。小説だけが頼りの綱でね。世界文学全集とか、児童文学なんかを読みあさった。本を読むのが仕事みたいな感じでしたから。なかでも、ロマン・ロランが大好きで。『ジャン・クリストフ』とか『魅せられたる魂』とか、ベートーベンの伝記とかトルストイの伝記とか。ロマン・ロランの情熱的な文章に魅かれてね。全集を買い込んで、読むのを楽しみにしてました。

 こういう本を読んていきますと、生きることが人生の中で一番価値あることだと自分でわかってくるんです。世の中で何が大事だといって、命ほど大事なものはないって。私にとって、本こそが先生であり、河原は学校の教室でした。当時はこうやって一人で河原で過ごす時間というのが好きではあったけれど、決して楽しいものではなかったと思っていたんですけど、いま考えると本当に充実した至福の時間だったですね。孤独ではあったけれど自分を見つめることのできたあの時間があったからこそ、今の私を育ててくれた。わびしくはなかったか、退屈ではなかったかなんてとんでもない。輝ける時間だったです。

絵画教室の写真

 現在の生計は、子供に絵を教えることによってたてています。いちおう肩書は画家となっていますし、それなりの受賞歴もないわけではないんですけど、絵だけで食べていくのはとてもとても。日本の美術界ではなかなか難しいものがありますね。しかも私の絵の描き方というのが、あくまで自分自身の内面の気持ちを描き出そうとするものですから。技術を縦横に駆使して構図も奇抜に使い、これ見よがしに色彩も華やかにして鑑賞者をうならせるタイプの絵とは全く無縁なんです。あくまで、私の理想は子供の絵の世界。純粋で、無邪気で、しかも芸術性の高い絵を描きたいと思っているんです。

 子供に絵を教えていますと、とっても勉強になるんですよ。構図の面白さとか、バイタリティーとか。とっぴょうもないような絵を描いてきますからね。絵を描くスピードもものすごいですし。どんどんアイデアが浮かんでくるみたいなんですね。天才と同じです。私にとって、子供に教えていることより教えられていることの方が多いです。先生なんてとんでもない。逆にこちらからひれ伏したいような気持ちはいつも持っているんです。

 私の絵の教室というのは、ですからこちらからこう描きなさいなんて言い方はいっさいしていません。アドバイスするのはあくまで、漠然としたことだけ。「目で物を見るんではなくて、心で見るようにしなくてはいけないよ」とか「形はどうでもいいから、最後まで仕上げることが大事なんだ」とか「原始人のような感覚で絵を描いてごらん」とかね。人類史上、君が初めて絵なるものを壁に描くんだというつもりになって描いてごらんよ、なんてよく言ってる。実は私もそういうふうに描きたいんですけど、なかなかできないんですよ。でも子供は、そんなアドバイスだけでガンガン描けちゃうんです。すごいですよね。絵というのは、描けば描くほどうまくなりますから。描く人の性格も出ていきますし。クニャクニャの線しか描けないで悩んでいる子供がいたら、「線の下手さは、君の神経の大きさを表しているんだ」「なんだかとっても宇宙的で、絵の世界に広がりを感じるよ」という形で褒めていくと、いやがらずに絵を描くようになっていきます。

 子供のことは、私、大好きなんです。子供たちと会話してる時間もとっても楽しいですし。子供たちと遊んでいると、自分の年を忘れて無邪気な子供時代に戻ってしまったように感じてね。もちろん、人を傷つけるようなことも平気で言うし、私を抱えて砂利道においてきぼりにするなんていたずらも、わんぱくどもはよくやってくれるんだけど、そういう行動も子供の創造性の一つでしょ。本当に悪い気持ちでしてるわけではないですからね。私が電動車椅子に乗って小学校の校庭に写生をしにいきますと、たくさんの子供たちが集まってきて、腕に自分の似顔絵を描いてくれとせがんでくるんです。みんなでなぞなぞをして楽しんだり。子供と遊んでいると、いつも時間がたつのを忘れてしまいますよ。

 子供たちが、「車椅子にのってると楽でいいねぇ」なんて言ってくると、私はいつもサリドマイド賠償の話をしてあげるんですよ。薬の副作用によって手足が不自由な子供たちが生まれてきたことがあって、その損害賠償金として9億7千万円のお金が支払われたんだよって。つまり、君たちの足にはそれだけの価値があるわけなんだ。9億7千万円のお金をもらうのと、歩けなくなることを選ぶとしたら、どっちを選ぶかい?って聞くと、全ての子が歩ける方がいいって言いますね。本能的に、子どもたちは健康であることの大切さをわかっているんですよ。

 子供たちと会話して、自然と触れ合ったりしていると、なんて幸せなんだろうってつくづく思います。風が吹き、木の葉がさざめき、鳥が鳴き、土の臭いが香ってくる。私にとって、こういった大自然の息吹に触れるだけで幸せなんです。ああ、本当に生きてるって幸せだなぁって。今日まで生きてきてよかったって心底感動できる。幸せのあまり、思わず頬をつねってみて、「痛い」と感じてまた幸せさを噛みしめているんですよ(笑)。

以上、晶文社刊「障害者の日常術」より

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